里山と稲作
里山の稲作は基本的に自給自足です.
そもそも土地の面積が狭く営農するほどの規模になりません。昭和50年代までは集落のほとんどの家で稲作をしていました。里山モノジロウの知る限り機械化の進んでいなかった昭和30年代から40年代初頭までは苗づくり、苗代、田植え、稲刈りまで人力で行われていました。
昭和40年代以降は稲作の各工程の機械化が進み田舎にも軽トラック、トラクター、田植え機、稲刈り機(+脱穀機)、乾燥機などが導入されました。田植え時期になると人の動きが活発になり7月になると緑一面の田んぼが広がったものです。
そして、稲の生育具合を確認するための「野まわり」が農家の日課です。この頃から里山にも現金収入の道が開けて平日はサラリーマンになる人が多くなり兼業農家が増えました。
機械化によって、
田植えと稲刈りの重労働が軽減されたこともあり、地域に住んでいて「野まわり」が出来れば何とか稲作が可能になり、しばらくこの状況が続いていました。
水の管理と病気予防が上手くいけば穂が出て実が入りやがて秋には頭を垂れた稲穂が黄金色に輝きます。
刈り取り、乾燥、脱穀作業が終わると、
新米の季節となります。必要に応じて籾摺り、精米をして「お米」になります。米は籾で保存すると品質をあまり落とさずに保存できます。近年は「ハーべスター」で刈り取りと同時に脱穀し、その後、乾燥機で乾燥します。
昔は稲刈りが終わると田んぼで「ハンデ掛け」です。天日乾燥してから家に運び脱穀していました。刈り取りの終わった田んぼは深まりゆく秋を象徴する里山特有の景色でした。
さらに時代が下ると 女性の社会進出も進み、農家の跡継ぎ問題へとつながっていきました。減反政策もあり稲作の魅力が一気に無くなってしまいました。
里山モノジロウの実家は平成の終わり近くまで稲作をしていましたがこの時、20軒以上ある農家のうち稲作をする家が3軒しかなくなりました。そして令和では1軒だけとなりました。
やがて耕作放棄地となり、田んぼは草だらけとなります。
それでも僅かな人たちが草刈りを続けて辛うじて田んぼとしての形(畦)を維持しています。
しかし、冬には枯れ草がなびく寂しい風景となりました。
いずれ稲作のノウハウも途絶えて、この土地で「米」を作れる人も居なくなるでしょう。
なぜ、かくも短期間で自給自足の「米作り」が衰退してしまったのでしょうか? そして、耕作放棄地だらけになってしまったのでしょうか?
現象面だけを見ると
消費市場化=米は買えば済む!とりあえずの収入はある!
サラリーマン化=平日は勤め!土日は休み!農家はできない!
これらの変化だけで何百年も続いた稲作が消えてなくなるのは惜しいと思います。そして、同時に地域社会ではお互いに田植えの手伝いをするなどのコミュニティーが機能しなくなってしまいました。
数百年もの間、何の特産物もない山あいの集落が存続してこられたのは「小さな集落の自治(self-government)」が機能していたからだと思います。
元に戻すことはできませんが、
稲作再開の可能性がゼロ出ないと信じて、少なくとも先祖が守ってきた土地を耕作放棄地にならないように維持管理を続けて行こうと思います。
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